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これほどみずみずしいアニメーションがこれまでにあっただろうか。この『ブレンパワード』は、数年のあいだ病に倒れ休業していた富野由悠季監督の復活第一作である。
休業前の富野監督の作品は主に「現状認識」をテーマとし、暗く重い単調な作品であった。代表例は『機動戦士Zガンダム(1985-1986)』だろう。宮崎駿のように「理想」を提示するような手法を避け、あくまで「現状」を提示し、受け手がそれを解釈するという形をとっていた。当然ながら「現状」とは決してドラマチックなものではなく、『Zガンダム』は単調な「現実」を淡々と見せつけるドライな作品となった。物語の構成としてはドラマチックに仕立てられている『機動戦士ガンダム〜逆襲のシャア〜(1988)』なども、やはり「問題提起」という側面が強く、メッセージは簡単には読みとれない。このように80年代半ばから90年代にかけての富野作品には「考えるのはあなたです」というスタンスが見える。 その富野監督が休業したのは、オウム真理教によるいわゆる「サリン事件」のころ。あのような事件が起こってしまった責任が自分にあると富野監督は考えていたらしい。なぜ監督がそう考えるのかは想像するしかないが、「現状」に対する「問題提起」を行った富野監督からすれば、オウムの「行動」はその「解答」として受け取れたのではないだろうか。実際に『逆襲のシャア』に登場するシャア・アズナブルは、地球環境を破壊した張本人である人類全体に対して、地球のために「粛正」を行う。もちろんそうすべきであると富野監督が言っているのではない。簡単に言えば、「人々の傲慢さが地球をこんなにしてしまった。さあどうしましょう。」という「問題提起」に対する、登場人物たちの葛藤や試行錯誤が展開される物語である。観客は同時にそれを考える立場にある。が、富野監督はそこに「解答」を提示してはいない。オウムのような人々がその「問題提起」に対して自分なりの「解答」を見いだし、実現させた結果が「サリン事件」だと考えれば、富野監督が責任を感じるのもわからなくはない。あくまでも私見だが・・。 だからこそ、「サリン事件」の直後に登場し一斉を風靡した『新世紀エヴァンゲリオン(1995)』がその反省に立っていないことに、富野監督は苛立ちを感じるのだろう。もともと『エヴァンゲリオン』は『ガンダム』の影響を色濃く受けているのだから、同じような傾向を持つのは当然である。『エヴァンゲリオン』の若い作り手たちがリアルタイムな事件に対して無頓着に『ガンダム』を継承してしまっている。それを目の当たりにした富野監督が作品を作れない状態に陥ったとしても不思議ではない。 その富野監督が沈黙を破り帰ってきた。『ブレンパワード』は、WOWOW初制作アニメーションとして1998年に放映された。前年の『もののけ姫』『エヴァンゲリオン』の大ヒットの余波の中の製作とあって、『ブレンパワード』にはその影が色濃く残っている。宣伝ポスターの「生きろ(もののけ姫)」に対する「頼まれなくたって生きてやる!(ブレンパワード)」に始まり、本編では『エヴァンゲリオン』ばりの回想シーンの多用、ピラミッド型の基地もそのまま。また、宇都宮比瑪とブレンパワードの会話は、ナウシカと巨神兵のそれを思わせる。断片のそれぞれはそのようにどこかで観たようなシーンが含まれているにもかかわらず、この『ブレンパワード』の作品全体は全く新しい。「本当に富野監督が作ったの?」と思えるくらい新しい。登場人物の口数の多さは相変わらずだが・・・・。 一言で言えば、「ストレートな作品」である。登場人物たちは、わかりやすいセリフを恥ずかしいくらいにはっきりと言う。今どきの流行は、セリフが少な目でわかったような表情を浮かべてボソッと一言二言しゃべって話が進んでいくタイプの作品である。実写っぽいし、作り手の力量が無くても格好良く作れるのでとても流行っている。しかし、『ブレンパワード』は違う。それは富野監督の大いなる反省が生かされているのだろう。はっきりと「言う」のだ。こんな富野作品ははじめてである。これがまたとてもイイ。すごくイイ。90年代にも様々なアニメーションが登場したが、あえて言おう。「ここにきて大きな番狂わせが起きた」と。『ブレンパワード』は90年代最高のアニメーションだ。 |
ブレンパワード 富野由悠季が復活するということ
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